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「直線」の虚構性と我々の精神のウソ

ああ、これだ!
ユークリッド幾何にあらわれるような「直線」の虚構性を例として使えばいままで説明しずらかったアレが説明できる:

「心のなかですべての物をしかるべき位置に正しい比率で配置する」ためには、外の現実世界とは切り離された形で、心のなかにレイアウト用のグリッドが存在している必要がある。そのグリッド空間は、「自然から切り離された視覚空間で」でも指摘したとおり、外の世界の物理的な制約も受けず、無限の空間をもつ。直線はどこまでも延長可能で、2本の平行線は無限に延長されても交わらない。そのような連続的な内面空間がアルファベット誕生以降の人間の頭にはインストールされているとするのがマクルーハンの論旨である。


インストールされた想像力:DESIGN IT! w/LOVE

つまり、ユークリッド幾何にあらわれるような無限の直線などと言うものは本当は存在しない。我々の周りにあるのは常に有限な線分だけだし、しかもその線分と来たら顕微鏡でみれば線などでは無く、がたがたのインクのシミにすぎない。

したがって、無限に長く無限に真直ぐな直線などは想像力によって作られたものだ。そしてこの手の「無限のXX」を作るような想像力は人間に自然に備わったものではなく、スキルとして(教育として)生後にインストールされるものだ。このスキルが大きく前進したのは古代ギリシアとデカルトぐらいの時代の西洋でだ。

我々の周りには有限の直線しかない。しかし直線を延長することでより長くできる。そしてそれでも長さが足りない時いくらでも延長できる。また我々が持っている線はまっすぐさに限界があるが、これもより注意深く描くことで幾らでも改良できる。この「幾らでもXXできる」というのをもってして限界が無いことと等価とする。そして限界を無いことを最初から「無限」と思い込む。これこそがこのスキル、別の名で言えば思考パターン、の特徴である。

我々が理解している「知能」というのもこの無限延長を自身の精神に向けて適用した結果の仮想物だ。
すると「知能」というのは常に融通が効いて未知の状況に対しても最適の選択をすることができる、そしていかなる有限のアルゴリズムや機械的機構でも実現そうにないくらい複雑なものであるということになる。これが今現在の我々の知能、知性についての研究が常に迷走する理由になっている。

実際の我々はそんな無限の存在では無くて、単なるアホである。しかし、線分を少しずつ延長するように自らのアホさを自覚的意識によって矯正できると、そしてその矯正の不完全さもまた矯正できると考えると、自身を(無限に)完璧な存在と思い込んでしまう。

また我々は肉体の要求やら、社会的承認への渇望に縛られた不自由な存在である。しかし、ちょっと我慢したりしてこの種の不自由をoverrideすることができる。これは(動物的状態からの比較として)ちょっとだけの自由の拡大と言うことができる。それでも不自由は残る。たとえば食欲を我慢するのは結局他人によく見られたいという社会的な欲望への隷属なのかもしれない。しかし、もちろんこの隷属も意識的努力によってoverrideすることはできる。でも、それも他の不自由の反映では・・・。いやそれもoverrideできる・・・・

と、こうやって限り無く自由を拡大していくことができる。それをもって「無限」と思い込む。これが「自由意志」である。「自由意志は例えば脳と言う機械の、物理学的決定論と相容れないのではないか」などという議論が行われるのは、ようするにこの無限延長の思考パターンにより自らの精神の自由を無限と錯覚したがゆえの事に過ぎない。

我々はしょせんは有限の存在に過ぎないのに。これを理解すれば我々の知能を機械論的に理解することはずっと易しくなるはずだ。


しかしこの思考パターンは近代のもっとも中核的な思考パターンであるので我々はそれにとらわれやすい。(実際多くの場合これは我々の能力を拡張する。)

常に無限延長されたものを基準に無限でないものを考えるのが近代の思考である。たとえば物理学はあきらかに数学的といっていい直線とか真円とか無摩擦とか誤差無しとかそう言うものを基準に思考し、それを基準にしながら現実を「ずれのあるもの」として認識する。

この思考パターンを我々自身に適用してしまえば、まず基準として「つねに完璧な選択を行う完全な合理性」や「全く何ものにも制約されることのない自由」だとか「完璧な計画とそれを実現する自制」とかを基準にして、そしてそれからの誤差(つまり非合理、愚かさ、不自由、自制心のなさ)として自分を認識することになる。なるほど近代以降の人間はいつも悩んでいて不幸なはずだ。

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webアプリにはアカウント消去が欲しい

アカウントを作るタイプのwebアプリは多い。ユーザーネームとパスワードを入力させて、大抵は個人的な情報を入力していく。あるいはできた後に行動の情報が収集できる。

私としては用がなくなった時はアカウントを、パスワードや個人情報ともども完全に消去できる仕組みが欲しい。そうすれば考慮の憂いがない。

しかしそう言う機能をもったwebサイトは少ない。

これは義務と考えられるようになってほしいと思う。ことあるごとに意見を言うことにしよう。

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英語のパーレン増加?

日本人の文章はけっこうパーレン括弧()の使用頻度が高い。一方、英語では一応パーレンを使ってもいいのだけど、ほとんど見かけることは無いし、あまり使うべきものでは無いと考えられている[1]。

と思っていたのだけど、どうも最近論文を読んでいると外国人のパーレンの使用頻度が上がってきているような気がする。使い方も日本の文章と同じだからこれがOKなら楽だなあ。

[1] これがまさに英語の影響。もとの私なら「英語では一応パーレンを使ってもいいのだけど(ほとんど見かけることは無いし)あまり使うべきものでは無いと考えられている」と書いたはず。英語でパーレンを使わないように苦労した結果として日本語でも同じく挿入的な句/節をカンマで何とかする癖がついてしまった。
しかしカンマで囲うより括弧の方が優れていると思う。なぜならカンマには他にもいろいろな機能があるので、カンマだと挿入的な(つまり付け足し的な)句/節だということが読まないと分からないから。

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日本はエセ西洋風なのか?

在日アメリカ人だけど日本に来てガッカリした(BIPブログ)

このアメリカ人は日本の建築がエセ世洋風であり、町並みが汚いことを盛んに嘆いている。で、いろんな反論、同意のレスがあるんだけど、私はちょっと違うことが気になった。つーか、日本の町並みってエセ西洋風なのだろうか。

センター街とかの繁華街のビルをエセ西洋風と言っているけど、もしかしたら反対に西洋建築がエセ日本風なのかもよ。日本の伝統的建築は装飾のための装飾を排し、すっきりとした直線で構成されている。外観のみならず和室の内装もそうだし、タンスなどの家具もそうだ。一方西洋の建築は伝統的には彫刻やテラコッタの飾り模様でごてごてに装飾する。家具なんかもやたらと唐草模様をつけたり、ネコの足みたいな足にしてみたり。
1850年の世界において装飾を排すること、直線で構成すること、単純さ追求することを美しいとする美意識をもった国は日本だけだった。(李氏朝鮮もそうかもしれないけど。)私は建築史は知らないけど、現在のような直線的な建物が成立するにはもしかしたら日本の影響があったんじゃ無いのかなあ。

これは建築に限らず、2次元上の平らな色面の構成からなるグラフィックデザインなどにも言える。どれくらいが日本の影響かは言えないけど、少なくともジャポネズムの時代以前に西洋にそんなものは無い。
だからこそ、世界の国旗のデザインの中でもっとも単純で力強いデザインを(ほとんどデザイン空間のなかの一等地を)日本の国旗が占有している理由だ。

西洋の伝統的な紋章なんかはライオンが居て盾の中には百合とかいろいろ書き込んである。これは確かに伝統のゆかしさがあるけど、現代にそんなデザインはあり得ない。対して日本の家紋のデザインは現在のデザイン感覚でも充分通用する。

それに、この人はなんでもプラスチックで安っぽいと言うようなことも嘆くけど、なぜプラスチックが日本的でないと言い切れる?軽くて光沢があり鮮やかな色をして自由な曲面を描ける、そう、漆器はプラスチックなき時代にあってはもっともプラスチックに似たものだった。西洋人が憧れた漆器が。
ピアノの黒は漆器への憧れからできたものだけど、西洋人がハープシコードに人の絵とかを描いていたころ日本人は黒一色の漆器とかを作っているわけで。

現在の食器はだいたいは白一色か墨付けで単純な模様くらいだ。西洋の磁器は中国や日本の磁器への憧れから出発したわけだけど、西洋人がやっぱり食器に人の絵とかを描いている時に日本では、正確で単純な模様の鍋島とかを作っているわけで。

このように直接の影響があるものも、直接の影響ではなく独立な収斂進化のものもあるだろうけど、総じて言えばこの150年の美意識の歴史[1]は西洋の日本化と言えるだろう。

と、いうわけで彼が基準にしている「西洋風」は日本化した西洋なのかもしれないよ。


まああとは一般の家だけど、本当に西洋風だろうか。外壁にモルタルを塗らなきゃならないのは耐火性のために建築基準法で決まった仕方ないことだし、伝統的家屋でも表面にモルタル平らに塗ったら今の家と同じにみえると思う。つーか実際昭和三〇年代くらいは全くの伝統工法の家にモルタル塗っただけだし、現在の軸組工法の家もその発展形なんだけどね。あとアルミサッシとか入れるのは快適性から言えば仕方が無いし。

まあしかし向こうの方が正しいと思うこともある。電線の地中埋設はやってほしい。あと看板の規制(大きさ、色、位置、場所)も。線路に向けて看板をかかげるのはヤメテ。

[1] 「美術史」という言葉をさけたのはいわゆる芸術、ファインアート、は全然違う歴史を描いているから。現代美術とは要するに、飾ったりするような美意識が退潮するに従い、またちょうど大量生産がぼっ興するに当たり、日常的な美と言うのを担うのがアーティストからデザイナーになっていって、その間やることのなくなったアーティストが変な方向に行っちゃったという事だと思う。美術史という言葉はそう言うアーティストの方をさす言葉だから。

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